贈答品にはなぜ水引がかけてある

お中元、お歳暮、結婚式、お葬式。私たちの人生は、この水引とともにはじまり水引とともに終わる、といっても過言ではないぐらいです。

 

人生の節目にあたろ儀礼の場には、必ず水引の’かかった贈答品や金一封の袋が登場するのですから。

 

この紅白や黒白の水引、いったいどんな意味や出来があるのでしょう。

これが、どうも由来はかなりバカげているのです。

 

室町時代(ニ三八~一五七三年)の中国貿易では、中国から来る輸入品には、すべて箱言ににに赤と白の縄がしぼりつけてあったのです。

 

’一の紅白一の縄を、送り出生中国人たらは、ただ単に輸出品こいつ目じるしとして、しばったにすぎません。

 

ところがどういうわけか、日本に輸入されるとき、おめでたいしるしだと勘らがいされたらしいのです。

 

やがてこれが贈答の習慣に定着したのは、目本の古代からの信仰に通じるものがあったからだと思われます。

それは、結びの信仰です。

 

何かを結ぶことで、魂がその結び目に宿り、贈る人のところへ自分の魂を運んでいくという贈り物の習慣に、紅白の水引が結びついたのです。

黒白の不祝儀用の水引は、祝儀用の紅白の水引をヒントとして発生したものと考えられます。

 

水引をかけた今回にのしをつけますが、これは贈り物の代表とされた。のしあわび″(アワビを薄くそいで、のばし、干したもの)からきたもので、これがしだいに、ことばも意味も変化していった」ものです。

 

セーラー服の大きなえりはなんのため

セーラー服はもとは海軍の水兵さんの制服だったのはご存じのとおりです。

 

はじめてセーラー服が着用されるようになったのは、一七世紀のイギリス海軍でのことです。そのころの水兵は、肩の後ろまで髪を伸ばしているのが普通でした。

入浴もままならない艦上生活ですから、長髪は汚れほうだいです。そこで、髪の汚れが服につかないよう、四角い大きな布を後ろにたらしたのがはじまりです。

 

 

庖丁とまないたの起原

中国の古典『荘子』には、牛料理の名人であった丁という人が庖すなわち台所で使っていた肉切刀のこ一とを「庖丁刀」と呼び、それが。転じて、厨子のことを代表して「庖丁」と呼ぶようになったとあります。つまり「庖丁」とは、もともとは料理人をさすことばだったのです。

それが転じて、料理人の持つている刀をさすようになりました。一方、「主な板」は、真魚を料理する板という意味です。

野菜を含めて、副食物のことを「菜」といいますが、その中でほんとうの菜という意味で、魚のことを「真魚」と呼んだのです。魚を骨ごと切るための平らで丈夫な板ということです。

 

 

桐のダンスはなぜ重宝がられる

昔から、ダンスといえば桐が最高級品と相場が決まっています。その理由の第一は、火事に強いことにあります。安政年間二八五四~六〇年)には江戸で大火事が起こりました。

このとき、神田橋前では、山のように持ち出されたダンスや良持が飛び火をかぶり、火の海になるという惨事になりました。

 

このとき、桐でつくられたダンスは、外側はまっ黒に焼け焦げても、中の衣類は無事だったので、その後江戸では桐のダンスが大流行したのです。

桐は内部に細かい空洞をたくさん持っているので、熱伝導が悪く、燃えき出しのスキ間をぴったりと閉ざして中の衣類を守ります。

 

国際線の飛行機はどの標準時で飛ぶ

南北に細長い形をしている日本では、全国どこへ行っても東経一三五度の明石標準時を使っていますから、国内旅行では時差で苦労することはありません。

 

しかし、世界中を飛びまわる国際線のジェット機では、出発地と目的地とが異なった時間帯にあるy一とのほうが普通です。

 

それぞれの飛行機や各地の空港の管制塔が異なった標準時を使用していては大混乱になるだろうと、容易に想像できます。

 

そこで、世界のほとんどの国か~盟してトろ匡際民簡が空機構は、グリニッジ標準時、つまり東経零度の線が通るロンドン、グリニッジ天文台の標準時を使って運航することを定めています。

 

わが国では運輸省航空局の管制業務規定で同じ’ジーが定められ、電波法施行規則の四〇条では、航空通信はグリニッジ標準時を使うこと、となっています。ゝ』れは国際線、国内線を問いません。また、自衛隊機にも適用されます。

 

ですから、国際線はもちろんのこと、国内線でもパイロットが管制塔と話しているときは、グリニッジ標準時を使っているのです。

 

もちろん、これは飛行機の運航上ロミこで、乗客へ~比発・到着の案内は、それぞれの現地時間で行います。

なお、航空関係者はダリニッジ標準時を「ゼブラータイム」、現地時間を「ローカルー

タイム」と呼んで区別しています。

 

海苔の裏表はどうやって見分ける?

海苔はもともと海藻類のうち、岩石などに苔状に生えるものの総称でした。ヌルヌルしているので、岩のヒに乗って足をとられた人も多いはずです。

 

これからもわかるように、この「のり」は「糊」「血糊」と同じく、ヌルヌルするものを意味しています。

 

語源としては、ヌラヌラの「ヌラ(滑)」がなまったものとする説があります。つまり、「ヌラ」「ヌラリ」「ノリ」、というわけです。

 

海苔の製法は、アサクサノリ(下級品としてはアオノリやアマノリも使う)を岩から採集します。

 

 

ところで、海苔には黒紫色の美しい光沢があります。西洋人が「ブラック・ペーパー」などと呼んでいるのも、この光沢があるからでしょう。

 

私たちは、おにぎりなどを海苔で巻く場合、見ばえの点からも、光沢のある側を外に向けがちです。つまり、そちらを表側と思っているわけです。

 

ところが、実際の海苔の表は、光沢のないほうなのです。

 

製法からいえば、前述した、日光に直接当たったほうが表になるのは当然です。すなわ

ち、光沢のない側です。もちろん、表面だけ乾かすのではなく、表面が乾けば裏側に返してもう一度乾かします。

この場合、裏側のほうが日先に当たる時間が少なくなるわけです。

 

海苔は、あぶりすぎると香りを失ってしまいます。いちばんおいしくあぶるには、海苔を重ねて持ち、よくおきた炭火にかざして、重ねたまま手早く表裏を返すことです。

 

 

吉のころだといわれています。

もちろん、浅草付近の海で採れていたからですが、その後、干し場が失われたことと海の汚染もあり、養殖場がしだいに品も多く出まわっているそうです。

豆腐の絹ごしと木綿ごしの違い

豆腐にはご存じのように絹ごしと木綿ごしの二種類があります。見た目といい、舌ざわりといい、いかにもぴったりの名称ですが、ほんとうに絹と木綿でこしているわけではありません。

 

豆腐は、製造工程の最後に、豆乳を型箱に入れて固め、あの四角い豆腐が出来上がるのですが、この型箱が絹ごしと木綿ごしとでは違うのです。

 

木綿ごしは、たくさん穴のあいた型箱を使います。この型箱に布を敷き、豆乳を流しこみます。そして上から重しをのせて水分を外に流し、固めます。木綿ごし豆腐のあの布目は、型箱に敷く布の目がついたものです。

 

絹ごしの場合は穴のあいてない型箱に濃いめの豆乳を入れ、そのまま固めます。型箱に布を敷かないので、布目はできません。絹ごしの名は、なめらかな舌ざわりから生まれたもので、製造にあたって絹を使うわけではありません。

「勲」と「位」はどう違う

国が勲功・功績のあった人に贈る栄典の一種に「勲等」「位階」があります。勲三等、従四位などと呼ばれているのがそれです。

 

どちらも歴史が古く、法規も異なりますが、現在のところ「勲等」は原則として生存している功労者に、「位階」は物故された功労者に贈られる栄典と考えればよいようです。

 

新派の女優初代水谷八重子は生前、勲三等宝冠章を受け、亡くなってから、従四位を贈られました。

 

「勲等」がいわゆる胸に飾る勲章であるのに対し、「位階」のほうは栄誉の称号のみという違いもあります。

「勲等」には大勲位菊花章頚飾以下、菊花、旭日、宝冠などの種類があります。また等級も、大勲位と一等から八等まであります。

「位階」は、戦前戦後では意味合いも違ってきています。

 

戦前は、おもに官吏や軍人に贈る身分的なものでしたが、戦後は対象を民間の功労者に広げる一方ご身分的なものではなくなってきています。

 

現行の「位階」には一位から八位までありますが、それぞれ「正」と「従」があるの

でコハ階になります。

 

ちなみに、戦後は正一位を贈られた人はなく、吉田茂佐藤栄作などが従一位を贈られています。

 

 

歌舞伎役者はなぜ屋号を持っている

歌舞伎役者が舞台でグッと見えを切る、そうすると、すかさず客席から掛声がかかる、「ナリクヤッ」であり「オトワヤッ」です。

 

この役者の屋号はいったいどこからきているのでしょうか。

芸名だけでしたら、江戸時代でも噺家常磐津にもあります。

 

これは江戸時代の身分制度に関係があります。

江戸時代の身分制度というと、まず士農工商というものを思い浮かべるでしょうが、さらにその下にも階層かおり、士農工商の良民と区別され、賎民と呼ばれていました。

 

役者は、もともとは河原乞食といわれる身分で、あるとき、役者は、はたして良民か賤民かということが問題になりました。

 

このころの人気役者ともなると、小大名顔まけの経済力を持っていましたが、良民と賤民では身分は大違いです。

 

幕府はいろいろと協議した結果、役者は良民であると判断しました。さあ、これで喜んだのが役者連中です。

 

それまで良民だかなんだかわからないまま、劇場付近にかたまって住んでいたのを、天下御免の良民だぞというので競って通りに住みはじめました。

 

そして江戸時代の法律では、表通りは商家でなくてはならなかったので、団十郎幸四郎菊五郎などといった連中は、お于のものの化粧品屋を開いたわけです。

 

化粧品の他、小間物屋、薬屋を開いた役者もいたということですが、商いには屋号がつきもの。あっという間に、歌舞伎役者の間で屋号で呼ぶことがはやった、ということです。

 

屋号は役者の良民であることのデモンストレーションであり、ステイタスーシンボルでもあったわけです。