節分の豆まきの起源はなんだろう
節分は太陰暦(旧暦)の立春前目で、旧暦新年の「七日正月」の前後にまわってきます。
ですから、太陽暦(現在の暦)に変わるまでは、節分は新年を迎える行事の一つだったのです。
平安時代の宮廷では、大みそかになると追啓といって鬼を追い払う行事をやりました。恨みを持って死んだ人が鬼になって、災害をもたらすのだと信じられていたからです。
このときは、綜をつくってまきました。これは中国の屈原の故事(一五八ぺしジ参照)に出来しています。
これとともに、春の初めに神が訪れて、祝福を与えるのだという信仰も古くからあって、家に神を迎えるために、おはらいをする行事も行われていました。
この鬼を追い払う行事と、神を迎える行事が一つになって、節分の行事ができていったのです。
各地の神社で、節分になると除災神事を行いますが、これは江戸時代から行われています。 節分の綜は、立春、立夏、立秋、立冬という年間のすべての節分につくられていましたが、これがしだいに変わって綜は五月の節句だけにつくられるようになり、「節分」のことばも、立春の前日だけをさすようになりました。
そして、綜も後には豆に変わってきました。なぜ豆になったかについては、よくわかっていないのですが、初めは豆でなくても五穀であればなんでもよかったようです。
なお、柊の枝に鰯を刺して門口に立てておく関東の風習は、鬼が鰯のにおいが嫌いだという俗信からきています。