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「霧」と「もや」とはどう違う

「北緯四〇度、東経一五〇度付近の海上では濃い霧が発往付石おそれかおりますから、船舶は十分ご注意くださいI‐上 天気予報では霧やもやの予報は、たいへん重要な要素となります。

おそらくコ大気予報を最も真剣に聞いているのは、船の乗組員でしょう。濃霧の発生は

海難事故につながりかねないからです。

 

私たちの日常の会話では、霧ともやを区別して使い分けることはほとんどありません。

 

「朝もやの街路」とか「夜霧の波止場」とか、どちらかといえば文学的な修辞となっているようです。

 

でも、気象学では違います。

きちん二両者を区別する基準が設けられています。その区別は、視界の妨げられる度合によっているのです。

 

気象学上の「霧」とは、水平視程が一キロメートル未満、つまり一手口以上の遠くの物が見分けられなくなる状態をさしています。

「もや」は、水平視程一キロメートル以上のものをいいます。また、水平視程二〇〇メートル未満(海上では五〇〇メートル未満)の霧を「濃霧」といいます。

 

「霧」も「もや」も、大気中に肉眼では見えない上うな水滴が浮遊して視界を妨げる現象ですが、それの濃いものが「霧」、薄いものが「もや」であるといってよいでしょう。

 

また、「煙霧」(スモッグ)とは、大気中に乾いた粒子(煙の位子など)が浮遊して視界を妨げる現象と規定されています。

 

水平視程はニキロ末満です。

 

 

ちなみに、「あられ」と「ひょう」の区別をご紹介しましょう。

 

両者は氷の粒の大きさで区別し、「あられ」の直径は五ミリ以下、それ以ヒのものが「ひょう」です。

また、「あられ」は「雪あられ」(白色不透明のもの)と「氷あられ」(透明もしくは半透明のもの)に区分されます。

 

 

眠たいときにはなぜ目をこするのか

眠くなると、血液の流れはゆっくりになり、血圧も下がってきます。

そして末梢の毛細管には、軽いうっ血が起こります。

まぶたも自然にうっ血してきます。まぶたの皮膚はたいへん薄いので、このほんのわずかのうっ血でも、腫れぼったくなり、どうにもならないほど重たく感じるようになるのです。

 

そこで、うっ血を散らそうとして、あの目をこする動作をするのです。

 

 

なぜ精液で血液型がわかる

血液反応の出ない犯罪でも、精液などから犯人の血液型が判定されることかあります。

 

血液以外でも、唾液や胃液、涙、尿、汗、羊水、精液などの体液から、血液型を判定することができるのです。

それは、これらの人間の体液の中に、赤血球と同じように、水溶性の抗原が分泌されているからです。

 

分泌される抗原は、A型の人はA物質、B型の人はB物質ときよっており、この抗原を調べることで判定ができるというわけです。ただし、O型の人は赤血球に抗原かおりません。

しかし、水溶性の抗原物質でHと呼ばれるものを唾液などに分泌しています。血液や体液以外でも、毛髪からも血液型の判定は可能です。

バルチック艦隊が敗れたのは

思い起こします。この二つのハイライト、旅順攻撃が接近戦でジャブの応酬の末ねばり勝ちをしたという印象かおるのに比べ、日本海海戦の場合はスカツとストレートがカウンターで決まったという印象を与えます。それほどに日本海海戦の勝ちっぷりはみごとでした。

 

このことは東郷元帥の奇抜な作戦が功を奏したのですが、あの有名な開戦前の電文「天気晴朗なれども浪高し」の天候も忘れるわけにはいきません。

 

日本海海戦は、明治二八年二九〇五年)五月二七日の朝にはじめられました。この日は

まさに二大気晴朗なれども浪高し」といった天候でしたが、これが前日だったらどうだったでしょうか。

前日の二六日の気象状況を見てみると、遼東半島および九州近海にはそれぞれ低気圧かおり、この二つの低気圧にはさまれた地域、つまり遼東半島、朝鮮、西部口本は雨になっていました。当然、日本海も雨です。

 

それが、低気圧の東進にともない二雨も東へ移勤し、二七日には「天気晴朗」になったのです。しかも、日本海では低気圧通過後には強い西風が吹くのがまわりの悪くなっているところに、小まわりのきく日本艦隊が、バルチック艦隊の横腹目ざして砲撃をしかけ、約五時問でバルチック艦隊は壊滅しました。

 

ニ仁か一天気清談」て々ければ、雨の中の奇襲で成功率が低かったでしょうし、「浪高く」なければ、バルチック艦隊は十の力を出しきったでしょう。そうなれば勝負はどうだったでしょうか。

 

 

宮本武蔵の「ムサシ」の由来は

天下の剣豪・二刀流の宮本武蔵といえば小説、映画、テレビですっかりおなじみですが、この武蔵という名前、最初は「無三四」と書いていました。

「無三四」とは、武蔵の父が「無二斎」、つまり、天下に自分ほどの武士は二人といないという意味の名前をつけたところからきています。父親が大下に無二なら自分は無三四というわけです。

 

ずいぷんと人をくった名前ですが、この名前から感じるには武蔵の少年時代は自信家で、騎慢な性格だったようです。

 

武蔵が生きていた117世紀前半は、関ヶ原の戦い大坂の陣などの天下を分けあっての戦乱がまき起こり、武芸に秀でた者が諸岡から引っぱりだこになっていました。

そして武芸者も自分をより高く買ってくれ亙崔い主を求めて諸国を歩いていました。自己PKが大事な売りこみの要素だったのです。

 

武蔵も自己PRのために「無三四」などという名前を考えたのでしょう。

「無三四」から「武蔵」になった時期は不明ですが、故郷の美さかのこさものしよ’。

作国古野郡讃母庄(現在の岡山県)を離れ、鴻国を巡り歩いアいるうちに、字音が通じることから「無三四」が「武蔵」になったのです。

 

なお、吉川莫治の小説では、この武蔵にを「タケソウ」と読み、これを武蔵の幼名としていますが、これは誤りで、幼名は「七之助」というのがほんとうです。

 

後の武蔵、七之助は、二一歳で最初の武芸試合をして相手を倒しているといいますか、やはり天下に「無三四」の天才だったようです。

 

 

節分の豆まきの起源はなんだろう

節分は太陰暦(旧暦)の立春前目で、旧暦新年の「七日正月」の前後にまわってきます。

ですから、太陽暦(現在の暦)に変わるまでは、節分は新年を迎える行事の一つだったのです。

 

平安時代の宮廷では、大みそかになると追啓といって鬼を追い払う行事をやりました。恨みを持って死んだ人が鬼になって、災害をもたらすのだと信じられていたからです。

このときは、綜をつくってまきました。これは中国の屈原の故事(一五八ぺしジ参照)に出来しています。

 

これとともに、春の初めに神が訪れて、祝福を与えるのだという信仰も古くからあって、家に神を迎えるために、おはらいをする行事も行われていました。

この鬼を追い払う行事と、神を迎える行事が一つになって、節分の行事ができていったのです。

 

各地の神社で、節分になると除災神事を行いますが、これは江戸時代から行われています。 節分の綜は、立春立夏立秋立冬という年間のすべての節分につくられていましたが、これがしだいに変わって綜は五月の節句だけにつくられるようになり、「節分」のことばも、立春の前日だけをさすようになりました。

 

そして、綜も後には豆に変わってきました。なぜ豆になったかについては、よくわかっていないのですが、初めは豆でなくても五穀であればなんでもよかったようです。

 

なお、柊の枝に鰯を刺して門口に立てておく関東の風習は、鬼が鰯のにおいが嫌いだという俗信からきています。

 

贈答品にはなぜ水引がかけてある

お中元、お歳暮、結婚式、お葬式。私たちの人生は、この水引とともにはじまり水引とともに終わる、といっても過言ではないぐらいです。

 

人生の節目にあたろ儀礼の場には、必ず水引の’かかった贈答品や金一封の袋が登場するのですから。

 

この紅白や黒白の水引、いったいどんな意味や出来があるのでしょう。

これが、どうも由来はかなりバカげているのです。

 

室町時代(ニ三八~一五七三年)の中国貿易では、中国から来る輸入品には、すべて箱言ににに赤と白の縄がしぼりつけてあったのです。

 

’一の紅白一の縄を、送り出生中国人たらは、ただ単に輸出品こいつ目じるしとして、しばったにすぎません。

 

ところがどういうわけか、日本に輸入されるとき、おめでたいしるしだと勘らがいされたらしいのです。

 

やがてこれが贈答の習慣に定着したのは、目本の古代からの信仰に通じるものがあったからだと思われます。

それは、結びの信仰です。

 

何かを結ぶことで、魂がその結び目に宿り、贈る人のところへ自分の魂を運んでいくという贈り物の習慣に、紅白の水引が結びついたのです。

黒白の不祝儀用の水引は、祝儀用の紅白の水引をヒントとして発生したものと考えられます。

 

水引をかけた今回にのしをつけますが、これは贈り物の代表とされた。のしあわび″(アワビを薄くそいで、のばし、干したもの)からきたもので、これがしだいに、ことばも意味も変化していった」ものです。

 

セーラー服の大きなえりはなんのため

セーラー服はもとは海軍の水兵さんの制服だったのはご存じのとおりです。

 

はじめてセーラー服が着用されるようになったのは、一七世紀のイギリス海軍でのことです。そのころの水兵は、肩の後ろまで髪を伸ばしているのが普通でした。

入浴もままならない艦上生活ですから、長髪は汚れほうだいです。そこで、髪の汚れが服につかないよう、四角い大きな布を後ろにたらしたのがはじまりです。

 

 

庖丁とまないたの起原

中国の古典『荘子』には、牛料理の名人であった丁という人が庖すなわち台所で使っていた肉切刀のこ一とを「庖丁刀」と呼び、それが。転じて、厨子のことを代表して「庖丁」と呼ぶようになったとあります。つまり「庖丁」とは、もともとは料理人をさすことばだったのです。

それが転じて、料理人の持つている刀をさすようになりました。一方、「主な板」は、真魚を料理する板という意味です。

野菜を含めて、副食物のことを「菜」といいますが、その中でほんとうの菜という意味で、魚のことを「真魚」と呼んだのです。魚を骨ごと切るための平らで丈夫な板ということです。

 

 

桐のダンスはなぜ重宝がられる

昔から、ダンスといえば桐が最高級品と相場が決まっています。その理由の第一は、火事に強いことにあります。安政年間二八五四~六〇年)には江戸で大火事が起こりました。

このとき、神田橋前では、山のように持ち出されたダンスや良持が飛び火をかぶり、火の海になるという惨事になりました。

 

このとき、桐でつくられたダンスは、外側はまっ黒に焼け焦げても、中の衣類は無事だったので、その後江戸では桐のダンスが大流行したのです。

桐は内部に細かい空洞をたくさん持っているので、熱伝導が悪く、燃えき出しのスキ間をぴったりと閉ざして中の衣類を守ります。